東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が開通した翌年、私は兵庫県西宮市で生まれた。父が銀行に勤めていた関係で転勤が多く、広島、名古屋、大阪と引っ越しを重ねた。
忙しいながらも新しい物好きだった父は自動車で家族をドライブに連れて行ったり、当時珍しかったテープレコーダーや8ミリカメラで姉や私の成長記録を記録したりしていた。特に8ミリは熱を入れていたようで専門誌を買い込み、撮影方法を工夫したり、ストーリー性を持たせたり、タイトルや字幕を入れたりと今見てもプロ顔負けの作品が多く残っている。
しかし時代は高度経済成長期のまっただ中、マメな父も忙しさにはかなわなかったのか、大阪での万国博覧会があったころ以降は作品も少なくなり、次第に押入のコヤシとなっていった。
幼い記憶として8ミリを撮られたことは何となく覚えていたが、小学校4年生になって衝撃的な出来事が起きた。
ある日曜日の夜、父と母が「8ミリでも久しぶりに見よか?(関西弁)」と言い出して、いつもは家族がくつろぐ部屋にスクリーンが張られ、映写機がセットされ、あっという間に居間が映画館になってしまった。そして電気が消され、姉や私の小さいころの映像がスクリーンいっぱいに映し出されたのだ。これは10歳の私にとってすごいことであった。それは決して古い映像がなつかしかったからではなく、「動く映像が記録される」という仕組みやメカに興味を持ったのだ。さっそく自分の勉強机の引き出しから定規を持ってきてフィルムの幅を計ってみた。確かに8mmの幅があり「なるほど、これで8ミリと言うのか」と納得した。それからというもの、頭の中は8ミリのことでいっぱいになった。父が以前読んでいた専門誌を読みあさり(これでかなりの漢字を覚えた)、わからないことは父の帰宅を待って質問攻めにしたりした。10歳にして映画の仕組みや用語、機器の種類までをすべて暗記できるまでになっていた。
8ミリに興味を持って以来、小学校から帰ってからすることといえば8ミリの編集であった。父が撮りためて、まだ編集していない家族の記録を時代別にまとめて編集する仕事を任されたのだ。
当時の男の子の遊びといえば野球であったが、野球などには目もくれず、ひたすら家で8ミリフィルムを切っては貼る作業を繰り返していた。
当時父に言われた「不要な物は思い切ってカットしないといい作品はできない」という言葉は20年後に就職するロイター通信社のニュース映像編集でも役に立つこととなる。
こうして編集を一通り経験すると次はカメラにフィルムを入れて自分で撮影したくなるものである。しかし小学生の私にはフィルム代も現像代も大金でとても払えるものではなかった。
そこで父に懇願するのだが……。
つづく