東京・錦糸町にお店をオープンさせるとみるみる忙しくなってきた。
当初は8ミリカメラや映写機の販売だけであったが、8ミリに関する多種多様なサービスを展開するようにしたのだ。各種8ミリフィルムを海外から輸入して販売したり、またその現像で海外に送ったり、機材の修理をしたり、テレシネと呼ばれるビデオやDVDへの変換作業をしたり、機材のレンタルをしたりとデジタル全盛の世の中で完全に逆方向を目指したビジネスであったが日本で唯一、アジア・オセアニア地域でも唯一の8ミリ専門店ということでだんだんと注目されるようになっていった。
業界でも8ミリの持つ独特の味や素朴さが受け、SMAPのミュージックビデオやテレビ番組、サントリーや小学館、公共広告機構などのCMに使われた。また雑誌や新聞からも相次いで取材が入ってくる。しかし(事実上)サラリーマンの身分のままだったので顔は出さずに取材に応じたり、インタビューに答える代役をつけたりして対応した。
そういう具合に自分の8ミリビジネスが多忙になっていく中で、本業である通信社での仕事はしだいにおろそかになっていった。
そしてついにその年の契約更新時に上司から「もう来年度の契約更新はしないから」と外資系企業独特のドライな言い方でクビを切られてしまった。
が、会社をクビになった私はまさに水を得た魚のように自由を謳歌し、8ミリビジネスにのめり込んでいく。誰に管理されることもなく、好きな時間に好きなだけ好きなことができるのは至上の喜びであった。
しかし一方で家内からは収入の不安定さや世間体を危惧され、あまりいい顔をされなかった。
かといって年齢的に転職も難しい30歳代後半、8ミリ稼業をやるより他に道はない。今までは副業ということもあり遊び気分でやっていたものが、家庭を支える本業になってしまったのだ。家のローン、生活費、教育費など責任は重かった。
そんな希望と不安の交錯するある日、日本テレビから夕方6時の「ニュースプラス1」で特集を組みたいという話が舞い込んできた。昔の8ミリが見られなくて困っている年配の視聴者の方の8ミリフィルムを、うちの会社がVHSテープに移しかえて、その方が大喜びするという内容だった。
そしてオンエア当日。特集のコーナーが始まった。8ミリをVHSに変換しているシーンが映るやいなや店の電話があっちでもこっちでもひっきりなしに鳴り出した。受話器を置いても置いても鳴りやまない。「私の8ミリもビデオにしたい」「料金はいくら?」「お店はどこ?」等々、6時半頃の放送から5〜6時間経った午前零時になっても電話は鳴りやまなかった。
さらにその翌日、店の前には目を疑うようなとんでもない光景が広がっていた。
テレビを見たという主に年配の方々が、8ミリフィルムを手に開店前の私の店の前に30m近い列をなしていたのだ。
テレビの凄さをまじまじと見せつけられた気がした。
その後、テレビ朝日のニュースステーションや朝日新聞の家庭欄でも取り上げられ、数多くの人の思い出のフィルムがビデオやDVDで蘇った。
会社の業績は順調に伸び、法人として登記する運びとなった。
しかし常に頭の中をよぎる不安があった。それはフィルムの供給とその現像である。
せっかく築いてきたこのビジネスもフィルムの供給とその現像ができなくなってしまえば終わりである。「いつかはフィルム供給と現像を自力でなんとかしたい」という夢をいつも持ちつづけていた。そう思っていた矢先、ドイツの8ミリ屋が「独自のフィルムを作りたいので日本のフィルムメーカーに材料を分けてもらえるよう口を利いてもらえないか?」と言ってきた。そしてこちらの手数料の話になった時に私から「手数料は要らないが、そのフィルムの材料をうちにも分けてほしい」ときりだしてみると、トントン拍子で話が進んだのだ。フィルムの自社製造が実現した。
そしてそのフィルムを現像しようと、ある現像所に話を持ちかけるとなんと「残念ながら来月で現像所を閉鎖するんです」と。お先真っ暗か?と思いきや「現像の機械はどうされるのですか?」と聞いたところ「捨てます」との返事。「じゃあ、それいただけませんか?」そこの従業員さん付きで現像施設まるごとを譲り受ける運びとなった。まさに捨てる神あれば、拾う神ありだ。
こうして長年のテーマであった自社でのフィルム製造、現像ができるようになった。今まで最長で1ヶ月近くも現像のために海外に出していたものが、現在ではわずか数時間で仕上がるまでになっている。