Web版「小型映画」誌


柄沢氏 フィルム映像の生命は本当に永い

8ミリ映画の専門誌「小型映画」が創刊されたのは、昭和31年5月。
私が玄光社に入社したのが、東京オリンピックの年の昭和39年。
当時はまだW8の時代で、8ミリ映画は、高級な趣味でカラーフィルム1本が1,750円ほど、 私の給料では10本も買えないほど高いものであった。
それが昭和40年にコダックがスーパー8、富士フィルムからシングル8が発売され、W8に比べ扱い安さと、 機材もフィルムも求めやすい価格で、一気に普及し始めた。
シングル8の「マガジン ポン!私にも写せます」のTVCMの名コピーも、普及に一役買ったのはご存じの通り。
W8からSS8(シングル・スーパー8)への、8ミリ映画の大革命であった。
こうして8ミリが身近な趣味として、ファンの層はぐんと増え、「小型映画」もぐんぐん発行部数を伸ばしていった。 ライバル誌に「8ミリ」「8ミリシネマン」が出てきて、編集部は互いに新型8ミリカメラのスクープ合戦に鎬を削ったのも、今は遠い思い出である。
8ミリカメラはズーム倍率競争に拍車をかけ、12倍ズームまで登場、撮影機構も一段と充実して高級化、 それに伴いマニアたちは制作意欲をかき立てられ、東京アマチュア映画コンクール、全日本アマチュア映画コンクール、 キャノンや富士等の各コンテストに応募、優れた作品を次々に発表していった。
なお、その当時の作家は今や高齢になったとはいえ、現在はビデオで積極的に映像制作を続けている。
相変わらず凄いパワーといえよう。
小型映画最終号表紙 8ミリカメラはさらに進化を続け、昭和50年代には同時録音まで出来るようになった。
しかし皮肉なことに同時録音カメラは、大きく重くなり扱いにくくなり、小型軽量の映像機器とはいえなくなった。 この頃から、8ミリの普及は下降線をたどり始めた。
昭和50年代後半から、家庭用ビデオカメラが登場してきて、8ミリの地位を脅かし始めた。
当時の家庭用カメラは、カメラとVtr部とが別で、大きく重く、画質も8ミリに比べ比較にならないほどひどかった。
しかし、電子機器の技術革新は凄まじく、家庭用ビデオ機材の小型、軽量化が進み、さらに画質も向上し上り調子に普及していった。 それに伴い、8ミリメーカーは8ミリに意欲をなくしたのか、新型機材がぱったりと発売されなくなった。
こうなると、ユーザーもますます8ミリ離れを起こし、潮が引くように8ミリブームは去ってしまった。
一時は10万部を越す発行部数を誇っていた小型映画誌も、急激に読者離れが起き、部数も減る一方であった。 ライバル誌も次々と姿を消していった。
また、キャノン、ニコン、富士フィルムなどの主要メーカーは相次いで広告を中止し、本誌も外堀を埋められていった。
実売部数も、1万部を下回るようになり、会社としても赤字を続けるわけにはいかず、遂に昭和57年10月号をもって 終刊の決意をせざるを得なかった。創刊以来363号、26年の歴史は終わることとなった。
編集長として、たまらなく残念であったし、読者に済まない思いと寂しさでいっぱいであった。
しかし、小型映画の最終刊の表紙に、宇宙へ飛び出すようなイメージフォトで締めくくり、アマチュア映像の、次の世代への飛躍を期待した。
こうして雑誌としては姿を消したが、8ミリは映画を愛する人々の手によって、いまだ生きながらえ、りっぱに映像機器として働いている。
ビデオ映像時代と云われているが、若い人たちの手によって、新作8ミリが次々と作られているのを見ると、 フィルム映像の生命は永いものだとつくづく思うこの頃である。

前小型映画編集長 柄沢 和夫

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