Yahoo!セカンドライフ
8ミリカメラの達人 神山 隆彦

15年ぶりに「8ミリ」という玉手箱を開ける

掲載日:2006年12月27日 テーマ:8ミリ , 映画 , 映像

死んでしまっていた「8ミリ」というメディア

死んでしまっていた「8ミリ」というメディア

プロとして通信社の映像編集に携わりながら、8ミリ映画を15年ぶりに趣味で始めようと思い立ち、いろいろと情報を集めることから始めた。
8ミリの場合、いろいろな条件がそろわないと作品を完成することができない。
カメラ、フィルム、現像、編集機、編集用品、映写機、そして修理をしてくれる場所や職人である。
1990年代中頃当時の状況はそのほとんどが消えてしまっているか機能しなくなっていた。
カメラや映写機はとっくの昔に生産が中止され、メーカーには部品はおろか当時8ミリに携わっていた人たちも定年退職で残っていなかった。中古カメラ市場でも8ミリは人気がなく、ゴミ同然に扱われたり、二束三文の値が付けられていた。たまに8ミリの機材が出てきても世間では扱い方がわからなかったり、修理ができないという理由で粗大ゴミとして出されてしまったりと悲惨な状態が続いていた。

私にとって8ミリはかつて映像というものを学んだ基礎であり、大先生であり師匠であった。このような8ミリが粗末に扱われている状況が許せなかった。何とかしてかつての名機達をよみがえらせたかった。一世を風靡したあの時を取り戻したいと思った。

8ミリ生き返り大作戦

8ミリ生き返り大作戦

カメラや映写機は比較的かんたんに集めることができた。しかし今のようにYahoo! オークションがあるわけでもなく、雑誌の「売ります」コーナーから探したり、地方へ出張に行った際に地元の小さなカメラ店の片隅で眠っている機材を買い求めたりして集めていった。しかしその他の小物や消耗品は、手に入れることは非常に困難であった。フィルムも簡単なものは大型カメラ店で手に入ったが、マニアックなフィルムは手に入らなかった。そんな時、同僚から朗報がもたらされた。同僚と言っても、そこはロイター通信社、イギリス人である。「それならロンドンで売ってるよ」と。
今まで日本国内だけに目を向けていた自分がハッとした。「そうか外国というルートがあったんだ」と。一気に目は外を向いた。それまで培ってきた語学がだんだんおもしろい方向に広がっていった。
調べていくうちに意外なことがわかった。8ミリが今でも盛んな国はなんと私が学生時代から語学や放浪生活でお世話になった、あのドイツ連邦共和国であった。
そこでドイツ8ミリ市場を開拓すべくドイツに休暇を利用して乗り込んで行くと面白い出来事が待っていた。知り合いを通じてドイツの8ミリ屋さんに連絡してもらうと、かなりのガンコ親父で外国人は嫌いだと言う。彼の絶対条件は「ドイツ語で話すこと」。
そう言えば日本人はあきらめると思っていたようだ。ところがどっこい、こちらの得意分野はドイツ語である。こちらの意志と欲しい商品をドイツ語で伝えると目を丸くして驚きまくっていた。(今では彼はいい飲み友達である)

15年ぶりに「8ミリ」という玉手箱を開ける

そうこうしているうちに家の二階にあった私の部屋は8ミリ機材でいっぱいになった。カメラだけでなく、重い映写機類も何十台と所有していたので、妻から「床が抜け落ちるんじゃないのー?」、「早く処分して」と毎日のように苦情が出はじめた。
確かに仕事が忙しく、集めるだけ集めてぜんぜん使ってない機材がほとんどである。
一通り久々の8ミリも楽しんだし、もうそろそろ処分してもいいかなと思った。しかし中古を扱うカメラ店に持っていっても二束三文である。そこでビデオ専門誌に一回きりの広告を打って、そこで所有機材を処分しようと思い立った。広告費用は10万円。広告代をペイして、所有機材が片づいて、お小遣い程度のお金が残ればいいと考えていた。
が、すごいことが起こった。
広告代をペイするどころか掲載した機材はすぐに完売。しかも「こんな物はないか?」「修理できないか?」とか「機材を買ってもらえないか?」「ビデオにダビングできないか?」という声が相次いだ。一回きりの広告のはずが翌月も、その翌月も続く事となった(現在も続いている)。気がつくと収入は会社の給料を上回り、自分でも「なんで?」という感じであった。
大学時代に経験したビジネス魂がまためらめらと再燃しはじめてきた。
しかしまだサラリーマンの身分であった。
つづく

このコラムの著者
8ミリカメラの達人 神山 隆彦
8ミリカメラの達人

神山 隆彦

小学5年生で8mm撮影デビュー。外国TV局の仕事を経て、現在は東京都で8mm機材を扱う会社を経営中。 [プロフィール詳細]