Yahoo!セカンドライフ
8ミリカメラの達人 神山 隆彦

山あり谷ありの初社会人時代

掲載日:2006年10月26日 テーマ:起業、就職

大学卒業、そして起業

大学卒業、そして起業

大学を卒業して、一般の企業への就職はせず自分で会社を作った。
主な業務内容はビデオ機器の販売と撮影、そして外国テレビ向けの日本国内コーディネート業であった。ほぼ現在の仕事の基礎はこのころできあがっていった。
時代はバブル絶頂期。景気がよく、仕事は順調であった。
当時自社開発したビデオ用のアクセサリーが大当たりし、台湾の工場で自社生産するまでになり猫の手も借りたい忙しさだった。
またドイツのテレビ局からの日本取材の仕事が大幅に増え、当時ドイツで放送される日本取材の仕事のほとんどを引き受けていた。取材先や宿泊先、交通機関を事前に手配し、ワゴン車を自ら運転して取材班を案内し、通訳もしながら円滑に取材活動を手助けするというのが主な仕事内容だった。
またちょうどこのころ結婚をし、まさに順風満帆であった。

大ピンチ

突然、順調であった仕事にかげりが見えてきた。
日本国内はバブルが崩壊し、景気が落ち込み、以前のように消費者が物を買わなくなってしまった。また海外では東西ドイツの統一が進み、ドイツは急に不景気となりドイツの放送局は海外取材を控えるようになってしまった。また湾岸戦争が勃発し、世界中のニュースの中心は湾岸戦争へと移っていき、日本などへ取材など全くなくなってしまった。また原油価格が高騰し不景気に拍車がかかった。
私の会社でも全く物が売れなくなり、また海外からの取材の依頼もパタリとこなくなってしまった。
結婚後、大きな家に引っ越し、第一子がこれから生まれるという時になって、収入がほとんどないという状況になってしまったのである。
しかし、そういう状況をなかなか妻には打ち明けられず、仕方なく借金をしては給料だと言って渡す生活が続いた。そしてその借金を返すために、また借金をするといったまさにドロ沼状態になろうとしていた。

逆転ホームラン

逆転ホームラン

何ヶ月かの超貧乏生活が続いた。
きっとそのまま行けば無理心中か餓死だったかもしれない。

そんなある日、電話が鳴った。
以前から履歴書を送っていたドイツの国営放送の東京支局が正社員に来ないかと言う電話であった。あまりにいいタイミングに最初は信じられなかった。
トントン拍子で話はまとまり、翌月から支局員として働くこととなった。
働き始めてすぐに「東京サミット」があり、当時の宮澤首相、クリントン大統領、コール首相などを報道の第一線で取材することとなった。ドキドキしながらも貴重な体験ができたのは感激であった。
担当したのは主に撮影と編集であったが、特に編集に関しては与えられた短い時間の中でいかに早く、かつ正確に重要な映像だけをテンポよくつなぐか(編集するか)という特殊技能を身につけることができた。この技術は決して映像の世界だけでなく日常の中でも、いかに冷静に順序よく物事を解決していくか、いかに簡潔に文章をまとめるか等に大きく今でも役立っている。
その後ロイター通信社のテレビ編集部門へと転職し、ニュース映像の編集技術を専門的に担当することとなった。

つづく


このコラムの著者
8ミリカメラの達人 神山 隆彦
8ミリカメラの達人

神山 隆彦

小学5年生で8mm撮影デビュー。外国TV局の仕事を経て、現在は東京都で8mm機材を扱う会社を経営中。 [プロフィール詳細]



トップへもどる | つぎへ