1年間のアメリカ高校留学を終えて1983年7月、日本に帰ってきた。
高校2年の1学期でアメリカに1年間行き、帰ってくるとまた高校2年の2学期から復学しなくてはならなかった。現在はアメリカの単位が日本の高校で認められるので1年ダブることはないが、当時は仕方なかった。
アメリカ留学の後、突然2学期から友人もいない1学年下のクラスメートと共に学んでいくのには、かなり大変なものがあった。しかも色気もない男子校である。
たったの1年日本にいなかっただけなのに社会の状況はまさに浦島太郎だった。
「おしん」や「積木くずし」など聞いたこともない言葉が氾濫していた。
また当時の8ミリファンの教科書的存在であった8ミリ専門誌「小型映画」という雑誌が書店からなくなってしまっていた。10年近く愛読していただけに悲しかった。
そう、時代は8ミリフィルムカメラからビデオカメラに変わろうとしていたのだった。
高価で撮り直しがきかず現像が必要な「フィルム」にかわって、安価で現像も要らず、映像もすぐ見られる「ビデオテープ」に変わろうとしていたのだ(ちょうど今、写真を撮るカメラが以前のフィルム式「銀塩写真」から「デジタル写真」に変わろうとしている現在に時代は似ているかもしれない)。
当時世の中はこの新しい「ビデオ」という機器にすごい勢いで染まっていき、いままであった8ミリというものをことごとく否定していった。後の自分自身もその流れに乗って、かつての8ミリを忘れ、ビデオの世界に飛び込んでいくこととなった。
帰国後しばらくはいろいろな「アメリカかぶれ」がつづいた。
例えば車。アメリカの車社会に慣れてしまったせいで、日本に帰ってからも車がないと不便で仕方なく感じた。満員電車がバカらしく思えた。
留学中、アメリカの高校でDriver’s
Educationという免許が取れるクラスを取っていたため、そのまま現地で免許を取得し帰国後日本の免許に2500円で書き換えた。
車に乗りたくて仕方なくなった私は、親に内緒で10万円のボロ軽自動車をお年玉を貯めたお金で購入し、毎日車に乗って高校へ通学した。なんと教師用駐車場に堂々と駐車していた。生徒数も多く、私服で通学できる高校だったため卒業時までバレることはなかった(しかし神様の罰が当たり、車ばかりで歩かなくなった私はみるみる10kg以上太っていき、20年経った今も戻らなくなってしまった)。
さて、高校3年生となり自分の進路を決めなければいけなくなった。
受験そのものに疑問を持ち始めていたこともあり、将来役に立つであろう語学の道に進むことを考えた。英語はある程度まで習得したので、他の言語をやってみたいと思った。中国語、スペイン語、フランス語……などいろいろな選択肢はあったが、ドイツ語を選んだ。アメリカ留学中に同じクラスだったドイツからの留学生に影響を受けたのと、自分の好きなカメラ、車などの分野からドイツに興味を持ったためであった。
そして入試。入学試験では得意の英語を生かすことができ、運良く外語大のドイツ語学科に入学することとなった。
一般的に日本の大学は一度入ってしまえば遊んでいても卒業できるイメージがあったので甘く考えていたが、私の大学では大きく違っていた。毎日毎日ドイツ語の書取テストや宿題などで、とても遊んでいる暇などはなかった。そのかわり着実にドイツ語が身に付いていった(これが思いがけず卒業後になって役に立ってくることとなった)。
そんな中、ぴったりなアルバイトが見つかった。結婚式のビデオ撮影カメラマンであった。週末だけなので大学の授業にも影響も出ず、今まで小学校時代から培った撮影のノウハウのおかげで最初から「経験者」として優遇され、破格の給料をもらうことができた。この給料でビデオ機材をグレードアップしていき、プロ用の機材をそろえていった。
ある日、顔なじみになったプロ用機材の販売店の店主が、突然「自分でビデオ機材を販売する商売を始めてみないか?」と持ちかけてきた。非常に驚いた。今まで8ミリやビデオなどを撮影したり編集したりと「使う」立場だった者に対して、「売る」立場になってみないか? と言うのである。話を聞いてみると機材や撮影のことに詳しく、よくしゃべる私に「これはいける」と直感的に思ったそうだ。
コストの負担もなく、リスクもなく、決して怪しそうな話ではなかったので、とりあえず1か月だけやってみることにした。
しかし1か月では終わらなかった。楽しい展開が待っていた。
つづく