よもやま話 <ブラックレイン篇> |
88年、パラマウント映画「ブラックレイン」大阪ロケスタッフとして参加
弊社代表者執筆
マイケルダグラス氏と。伊丹空港駐車場ロケ(実際には使用されず) (写真はすべて私による撮影です。 無断転載禁止) |
1988年冬、当時大学3年生だった私に大きな仕事が舞い込んだ。 アメリカ映画「ブラックレイン」の大阪ロケの仕事だった。 当時アメリカ留学から帰ってきて5年が経ち、アメリカの放送局の日本支社でアルバイトをしていた。英語が話せて映像に詳しい人材を広く探していたパラマウント映画からお声がかかった。 私が大阪出身で主なロケ現場であった心斎橋や道頓堀に詳しく、そこから歩いて10分のエリアに実家であることも重宝がられた。 仕事内容は、主にリドリー・スコット監督の横についての通訳であった。また撮影したばかりのテープを巻き戻して監督に見せる(本編は35ミリのフィルムでの撮影だが現像しないと撮影結果が見られないため、ファインダー内に接続されたビデオカメラからの映像を録画・再生して監督にすぐ見せる)担当のほか、交渉事などのいろいろをを任されていた。 撮影の規模は想像を超え、ものすごい予算で撮影を行っていた。 例えば「タクシー約50台を24時間x2ヵ月以上貸し切り(当時珍しかった自動車電話が全車に配備されていたさくらタクシーを使用)」「都ホテル大阪の 2フロアーを事務所として2か月間貸し切り」「魚市場ロケの際、市場中の魚をすべて買い取り」などなど驚きの連続であった。 我々へのギャラも破格の高額で、ロケ終了後はバブル景気も手伝って新品の外車を即金で買うスタッフであふれていた。 早いもので撮影から35年以上が経ち、伝説となったブラックレイン大阪ロケ。 当時を知らない世代も多くなり、あの時のことを写真とともに振り返りたいと思う。 |
当時「あべのベルタ」周辺が当時大きな空地になっていて、そこが撮影隊の基地となっていた。全ての車両が集結し、打ち合わせや休憩を行っていた。かつて通っていた高校の近くだったので私にとっては庭のようなエリアだった。 12月の寒い夜、本来ならアメリカのユニオンの規定で温かい食事を24時間提供しなければならないことになっていたが、当時の日本ではそういう業者がなく、その代わりに縁日でよく見かけるいろんな種類の屋台が並び、すべて無料で好きな時間にたこ焼きや焼きそば、焼とうもろこしを食べられるようになっていて、まさにお祭り騒ぎであった。 私が参加した日は演者(俳優)はおらず、車両走行シーンを主に撮影していた。 この日ハプニングがあり、撮影用に用意していた黒のニッサン セドリックのエンジンがかからなってしまった。そこでたまたま私が私用で乗ってきていた黒のトヨタ クラウンを急遽使うこととなり、走行シーンの背景に使用された。現在弊社が劇用車を始めるルーツとなった。 |
食べ放題、飲み放題に歓喜! (肩にはショルダーホン) |
急遽出演を果たした私の当時の車 |
有名な道頓堀ロケは夜を徹して行われた。実際に映画で使われたシーンの10倍ぐらいのシーンを場所を変えアングルを変え撮影していた。もちろん野次馬も多く、警備が非常に大変だった。 実際にはほとんど使われなかったが現在の戎橋ビルがある場所にあったビルの上層階で多くのシーンが撮影された。 ニックとチャーリーが松本と別れて帰っていくシーンの直後のブラインド越しの道頓堀橋のシーンはここから撮影された。 |
お蔵入りとなったニックのシーン。 誰かがブラインド越しに道頓堀を見下ろすシーンはここで撮影 |
狭い中マイクを操作する音声スタッフ |
震災前の神戸・元町・大丸前。 佐藤の愛人を尾行するシーンが午後から夜にかけて行われた。 かなり大がかりなロケで見物人もすごかった。撮影に使うタクシーはすべて大阪から用意したものだった。 |
ニック役 マイケルダグラス氏 |
松本役 高倉健さん |
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小野みゆきさん |
マイケルダグラス氏のスタンドイン(アングルなどを決める時の代役) |
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出番を待つ健さん。スタッフと談笑中 |
撮影に使用されたキャメラとマイケルダグラス氏 |
日本での撮影をひとまず終え、残りはアメリカで撮影することとなった。スタッフへのお礼と敬意をこめてパラマウント映画による打ち上げパーティーが催された。俳優陣、スタッフ、監督も出席し大阪上本町の都ホテルのバンケットルームで立食パーティースタイルで行われた。内田裕也氏による歌の余興などもりだくさんであった。 |
リドリー・スコット監督と |
マイケルダグラス氏と |
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制作スタッフと |
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